終わらない日常の退屈さとの闘い

移動手段の発達がもたらした人の無感動さ
http://anond.hatelabo.jp/20080815161337


ちょっと話を広げさせてもらうと、この増田の危機意識は、「退屈な日常をどうするか」という大きなテーマへとつながっているんじゃないかと思います。


テクノロジーやサービスによって、どんどんと生活が便利になっていくのと引き換えに、今まで日常の中で感じることの出来た感動やリアリティは、徐々にその鮮やかさを失っていくように思えます。
じわじわと心に広がっていくそのリアリティの欠如は、やがて自分が何事にも無感動な人間となっていくかのような強迫観念となっていきます。それは無感動で埋め尽くされる果てしない日常の退屈さへの恐怖です。


このようなテーマは、特に90年代終わりくらいからの日本のロックシーンにおいて、スーパーカーくるり中村一義ナンバーガールらによって盛んに歌われていたように記憶しています。
ロックの歴史を精神面から眺めてみても、その多くがこの日常を覆う退屈さとどう折り合いをつけるかという問題に悩まされていたように思えます。

  • ガンズ&ローゼス 「もう全部ぶち壊せばいいし」 →
  • ジーザス&メリーチェイン 「ハニー、僕を救って」 →
  • ニルヴァーナ 「やっぱ駄目、もう死にたい気分」 →
  • レディオヘッド 「そもそも悪いのは俺じゃないし」


スーパーカーの「FAIRWAY」っていう曲では、下記のように歌われてます。

名曲が今をなだめてるよ
まだ何か足りないって、ダレないであと何回言えばよかったんだ?
名曲は今も流れてるよ
目の前と向き合うとそれさえも色褪せていくと思ったら、負け


くるりの「ばらの花」っていう曲では、下記のように歌われてます。

ジンジャーエール買って飲んだ
こんな味だったっけな
安心な僕らは旅に出ようぜ
思い切り泣いたり笑ったりしようぜ


中村一義の「キャノンボール」っていう曲では、下記のように歌われてます。

傷だらけの消えそうなメロディー…、
目を刺す青空達…、
あぁ、そこらにあるオレンジジュースの味…、
穢れの先で。70's、80's、90'sだろうが、
今が二千なん年だろうが、
死ぬように生きてる場合じゃない。
僕は死ぬように生きていたくはない。


そして僕がこの増田に対して思うのは、テクノロジーや社会の変化によって、日常的な感動がなくなっていくとしても、その変化によって見えてくる新しいリアリティもあるんじゃない?ということ。


それと、単にテクノロジーやサービスを敬遠するよりも、一度それを作り出す側に回ってみたらいいんじゃない?ということ。
そうすれば少なくとも、「富士山に登るような苦労」を、あなたの日常とできるのだから。